営業コミュその2

前座ははじめてじゃない。デパートの屋上で歌うことも、CDショップで歌うこともしてきた。だから、大丈夫だと自分に言い聞かせる。広報さんのニコニコと、プロデューサーの握り拳に背中を押されてピッチに足を踏み入れる。アナウンスが私の名前を告げた。思っていたよりもずっとたくさんの拍手が降ってきた。駆けながら軽く手を振る。少し拍手が増える。
ポジションについて、顔を上げる。リハの時より、ずっと客席を近くに感じる。右足を軽く振ってつま先を降ろす。イントロ、入りのステップ、大丈夫。いつものヒールじゃないけれど、ちゃんと身体が動く。

アウトロ、指先をキープ。拍手が降ってきた。そういえば、拍手を下から聞くのは初めてかもしれない、そう気づいて、ふと風の匂いを感じた。あぁ、これが芝の匂い。スタンドを見上げると、さらにいろんな匂いが渡ってきた。焼きそばの匂い、ポップコーンの匂い、ビールの匂い。


…確か試合まで1時間あるはずだけど…もう呑み始めてて大丈夫なの?


匂いにつられるように、私は動線を外して歩き出してしまった。広告板の間を抜けて。手を振りながらスタンドの前を歩く。私のイラストを描いた旗があった(後で聞いた話だけど、私が出ると知って見に来た人もいたらしい)
そうだハケなきゃ、と思った矢先、ドン!ドン!とドラムが鳴った。続けて、コール。私の、名前? ドラム、手拍子、コール。どう反応したものだかわからなくて、反射でマイクのスイッチを入れてしまった。
「ありがとうございます。今日は、楽しんでくださいね!」


「お疲れ様」
「お疲れ様」
広報さんとプロデューサーさんが迎えてくれた。
「すみません、動線変えてしまって」
そう、勝手なことをした。そう思っていた。
「なに言ってるんですかぁ。みんな喜んでたじゃないですか。いやぁ、お願いしようと思ってたんですけど、さすがにちょっとという所だったんで嬉しいです」
「え?」
「あの広告の看板、あれを超えるか超えないかで、ファンの人たちの印象違うんですよ。けど、やっぱり不安もあると思いましたんで。まぁ、終わりよければすべてよしですけどね。あ、」
広報さんが隣にいる男性二人をさす。一人は白人の、おじさん、なのだが、妙に締まった印象がある。差し出された手を慌てて握る。
「オツカレサマ。Thank you for your act.」「お疲れ様です。素敵なステージをありがとう」
隣にたったおじさん(多分日本人)が通訳してくれる。私でもわかるぐらい平易な英語だ。ネイティブじゃないのかもしれない。
「喜んでもらえたなら嬉しいです」
「うちの監督です。会わせろって聞かなくって」
広報さんが紹介してくれる。監督さんは微笑んで手にもったタオルを私に手渡した。
「This is present for you.」「プレゼントです」
几帳面にたたまれたタオル。広げてみる。チームカラーにエンブレムの刺繍。
「I went to your concirt at Tokyo. My wife took me there, and you got new fan.」「あなたの東京でのコンサートにも行ったんですよ。妻が連れて行ってくれたんですが、あなたのファンになって帰ってきました」
あの曲もよかったですが、そのあとにかかったあの曲がとても心に残っています、と、セットリストをそらんじているように話してくれた。初めてのソロライブ。あの小さな会場にいてくれたんだ、と実感がわく。
「My players want to see you too. But I had to say them "No! Concentrate for game!"」「選手も会いたいと言ってたんですけれど、"試合に集中しろ"と言うしかなくて」
「This is my privilege」「私の特権です」
人なつっこい笑みがこぼれた。ちらりとプロデューサーを伺う。
「いいんじゃないか。試合のあと、挨拶させてもらっても」
「OK. I say them "Win. Or you can not meet her"」「ありがとうございます。"勝ったら"って言っておきます」
「アイホープソウ」
頑張って英語で。監督が笑う。私と広報さんを交互に指さす。
「Here we have Aegis and Athena. We must win.」「イージスとアテナがいるんだから、勝たなきゃいけませんね」
監督さんの顔がくしゃっ、と、なる。本当に、よく笑う人だ。
と、奥の通路から声がかかった。監督、そろそろロッカーに入ってください、と。


「ちょっと待ってて」


はい? 多分、私の目が丸くなっていたんだと思う。監督さんもおどけて目を丸くした。天井の方に視線を逸らして、ハハ、と笑って肩を揺らす。
「大事な話は通訳を通すようにしているんです。やっぱり、私の日本語は下手だから」
そんなことない、目を閉じてたら日本人が話してるとしか思えない。監督さんは、でも、と話を続ける。
「一つ、あなたにレッスンをしましょう。あなたは、すぐに世界の人たちと仕事をすることになると思います。その時に相手の言葉を学ぼうとする姿勢を見せれば、ずっと仕事はしやすくなります。日本は特にそうだけど、自分たちの言葉を学ぼうとする人を、悪く扱う人はいません」
「そんな、世界なんて…」
「あなたぐらいの年頃はね、自分が実際よりとても大きく見えたり…逆に、今のあなたみたいに…実際よりとても小さく見えたりします。そんな不安定な自分の心より、私の言葉を信じてください」
小さくウインク、右手が差し出される。きゅっ、と、その手を握る。思っていたよりもずっと柔らかい手だった。
「楽しんでもらえる試合をします」
「頑張ってください」


プロデューサーは着替えるか?と聞いてくれたけど、試合が終わるまでは着たままでいようと思った。短すぎる丈も、もらったタオルを載せれば気にならなかった。メインスタンドにプロデューサーと広報さんと並んで座る。さっき私が歌っていた芝生で選手が練習をして、そして一度誰もいなくなる。


アナウンサーがなにかを話した。300度から歌が響く。右からも、左からも。右に座っている広報さんも歌っていた。
「これ…替え歌ですね…元の曲を聴いたことがあります。替え歌なのに…こんなにたくさんの人が一度に…」
歌を、共有するということ。
「何年も、歌ってきてるんだよ。歌詞カードを配ったり、隣の人が歌ってるのを耳で覚えたり」
プロデューサーがゆっくりと教えてくれた。旗やユニフォームと同じように、歌もサッカーの象徴であるということ。チームや選手を応援した記憶は、歌と一緒に残るということ。歌の終わりに、入れ替わりで選手が入場する。


新幹線の車窓は、何も見えないぐらいの速度で過ぎ去る。私はCDを聞いていない自分に気がついた。忘れられないコンサートを聴いた後、そんなときと同じような振る舞いをしている自分に驚く。
「プロデューサー」
「?」
「今日は、ありがとうございました」
「どうしたんだ? あらたまって」
「目標が、できました」
「目標?」
「ああいうところで、替え歌を歌ってもらえるようになります」
「…監督さんの言ったこと、信じられるのか?」
「監督さん?」
「すぐに世界を相手に仕事をするようになるってこと」
「…それは…」
「俺は信じられるよ。だから、それもそんなに難しい目標だとは思わない。頑張ろうな」
「…はい…」
不安定な自分、それは監督さんの言ったとおりだ。自分の考えよりも、きっと正しいんだろうと思える。けれど、自分の歌があんなふうに心のよりどころとなるところは、正直なところ想像できない。そうなりたいとは思う。けれど。そんな私の表情を見て、プロデューサーは大丈夫、と微笑んでくれた。


私は車窓に目線を戻す。不安そうな私が映っている。