ボンクラ

彼女の名は電書ちゃんという。
本名は知らない。あったこともないし、年も知らない。顔も知らない。アイコンはアニメ絵だし、声も声優チックなので出自を感じさせる情報はゼロだ。電子書籍をはじめとするあらゆるコンピュータサイエンスにやたら造詣が深い。けれどもそれ以上の情報はない。どこで知り合うことになったのか、それすらもよくわからない。ネットでのつながりってそういうもんだと思っているけど、なにもかもが曖昧だ。


小さな声で、ことのあらましを説明する。と、いっても知っていることは限られていて、要するに桜坂さんが殺された、ということだ。
「で、その斬奸状とやらは見たの?」
「スキャンしたのを関塚さんに送ってもらったけど…」
MacBook Airを開いてpdfを送信する。見せてもらったけれど、意味がわからないってのが正直なところだ。
「…ふーん、で、あんたはどう思うの?」
「どうって、…よくわかんないよ。SigilのEPUB3対応をサボってたのが犯人を刺激したことぐらいしか…」
Sigilとは、EPUBを書くためのソフト、なのだが、EPUB2にしか対応していなくて、たちの悪いことにEPUB3を編集しようとするとEPUB2でもEPUB3でもないファイルを作ってしまうという欠点がある。縦書きの電子書籍を作ろうとしてSigilを使ってやらかす、というのは2013年から2014年前半のあるあるだった。桜坂さんは失職している最中にSigilのEPUB3化に手をつけて、結局挫折したらしかった。斬奸状の主はそのことをどこからか聞きつけて、けしからんと思ったらしい。古風な文体から僕が読み取れたのはそのぐらいだった。
「んで、どうするの」
「…そりゃあ、犯人を止めないと…、もう何人も殺されてるみたいだし、こんなのほっとけないよ」
「ほっとけないからってあんたに何ができるのよ。ボンクラ」
「ボンクラって…」
「ボンクラをボンクラって言って何が悪いのよ。これみて、そのぐらいしかわからないボンクラに何ができるんだか!」
「そのぐらいって、書いてあることはそのぐらいじゃないか…」
「…あんた、このフォントに見覚えがある?」
「フォント?」
「…こっっっの、ボンクラ!!!!! MSゴシックでもメイリオでもヒラギノでもモリサワでも小塚でもないことぐらい一目見ればわかるでしょうがぁ!!!!」
「…あ…」
「そんなこと一つも見抜けないようなボンクラが、ほっとけないなんて寝言いってんじゃないわよ! 奥さん子どもいるような人間は部屋の隅でガタガタ震えて神様にお祈りでもしてなさい! そんなボンクラが彼女に立ち向かうなんて、マイルドな自殺以外のなにものでもないわ!」
「…」
「わかったら忘れてさっさと寝なさい! こないだみたいな不抜けたプレゼンやったら承知しないわよ!」
「あ、こないだの、聞いてたんだ… え、アレ…?」
「なによ」
「…彼女?」