月夜

願わくば花の下にて春死なん。そう、どうせ死ぬのだから、美しいものを目に入れたまま死にたいものだ。僕は今、その幸せに巡りあっている。
職場の建物を出て数歩、頭の中にあった仕事は全て消し飛んだ。月明かりに照らされたその姿は、なにもかもを忘れさせる完璧さを持っていた。あまりにか細くしなやかな身体の陰影を、月明かりが演出していた。シンプルな服装、長い髪、そして太刀。
瞬きをする間もなく、僕の左側の頸動脈はその機能を失った。瞬きせずにすんだことはなによりの幸運だった。すくなくとも、意識のある間は彼女を知覚することができる。


どこかでみたような、そうだ、小説に書いたキャラクター…そこまで考えて、自分は大きな間違いをしていたことに気づく。彼女が似ているのではない。完璧というものを求めた結果、真に完璧なるものを追っていたのだ。ああ、彼女はこういう姿だったのか、今ならもっと美しく描写できたものを、まぁ、それもどうでもいいことだ。


静かに見下されている。それもいい、自分の生きていたことに意味があるとするなら、それは今、この瞬間をおいて他にない。