「ラジオ消していい?」

聞くだけ聞いておいて、サヤカは勝手にスイッチを切った。ナギは視野の隅っこにサヤカの引き結んだ口元を捉えて、ゆっくりとハンドルを切った。土曜の昼過ぎ、ドライブにはちょうどいい時間。サヤカにとっては、思い出したくない時間だったんだろう。ナギが軽くアクセルを踏む。クラッチを切ってシフトアップ、改めてアクセルを踏み込む。無言の車内に、V8の震える音と小さなスキール音が入り込んだ。


『どっかつれてって』
かろうじて午前中、目を覚ましたナギのiPhoneの通知画面には、その一言が表示されていた。またか、とナギは嘆息する。1時間後に迎えに行く、とメッセージを返して頭の中で幾つかのコースをシミュレーションする。まぁ予兆はあった、とナギは顔を洗いながら考える。ファンデを軽くのせ、口紅とブロウペンシルを入れる。ナギは鏡の中の自分を計測して結論を出した。チークは不要。


クルマをサヤカのマンションの前に停める、程なくしてサヤカが姿を現した。助手席にどすんと音を立てて座る。
「いつものことなんだけどさ」
サヤカが少し非難をにじませた声音で言った。
「この子、虎みたいな音なんだもん。ナギが来たってすぐわかる」
「元々こんななんだよ。別にわざわざ大きい音にしてるわけじゃない」
しってる、とサヤカが眉をしかめる。ナギはサヤカを無視するように前を向き、クラッチをつないだ。乗り込んできた時のサヤカの顔を、ナギは頭の中で再構築する。メイクがいつもよりずっと雑。具体的に言えば、リップにグロスが入ってないし、マスカラもしていないようだった。予測はあたっていたと考えるのが適当だろう。
「どこか行きたいところはある?」
「とりあえず、ものを考えたくない」
「時間は?」
「何時まででも平気」
ナギが頭のデータベースにクエリーを出す隣で、サヤカがセンターコンソールに触れる。モーター音と共に、車内に日差しが入り込む。屋根はゆっくりたたみ込まれ、青い空と白い雲の黄金比が覗いた。ナギの検索エンジンが結論を出した。
「お魚でも食べに行く?」
「いいね」
ウィンカーを出してランプをあがり、ETCのゲートをくぐる。ナギが軽くペダルを踏む。ボンネットの下のエンジンが甘えるようにゴロゴロと鳴いて、身体がシートに押しつけられる。助手席から非難の混ざった視線を検知したが、ナギはフィードバックを返さなかった。


緩やかなカーブをいくつも抜けて、クルマを南へと走らせる。街の匂いが過ぎ、草の匂いが過ぎ、海の匂いがやってきた。ランプをゆっくりと降りる。もう日は上でなく、右にある時間。海岸線の狭い道を、ナギはゆっくりと走る。ナギのクルマが喉をゆっくりと鳴らす。右手に灯台が見えた。錠前をつけるとふたりは別れないとかいう宣伝がある灯台。ナギが左目の端でサヤカを伺う。こちらに背を向けて、海のない方を見ていた。そう、何もない方向。


目的地の温泉旅館は観光客で混雑していた。待合でナギが名前を書く。10組以上待ちがあった。食堂の様子を見ると、食べ始めた客ばかりだ。軽く見積もって1時間といったところだろう。サヤカがナギの後ろから手を出して、順番待ちの紙をなぞる。
「…ね」
「なに?」
「空きがあったら泊まっていかない?」
「…」
声に出さずにナゼを問う。
「…その方が早く食べられそうだし…」
もう一度、声を出さずにナゼを問う。
「…そうしたらナギもお酒飲めるし…」
サヤカはこらえきれず、目をそらした。
「…家、帰るのやだし」
ナギが返事をする前に、サヤカはフロントに向かって歩き出した。


瓶ビールをお互いのグラスにつぎあって、乾杯をした。お刺身は分厚く切られていて、ビールを流し込むのに素敵な水先案内人になっていて、巨大なエビフライはタルタルソースと混然一体となり、二人の頭からカロリーという言葉を消去した。


「もう、男なんかやめようかな」
サヤカが窓の外の海を眺めながら、ぽつりとこぼした。
「じゃあ、私にする?」
ナギも海を眺めたまま、小さく、小さく、ささやいた。サヤカが元々丸い目をさらに丸くして、ナギを見る。ナギは、同じ方向を向いたまま。
「…わたし、ストレートなんだけど」
サヤカがゆっくりと言葉を選ぶ。
「わたしも、自分にストレートになろうかって思ったの」
波が寄せて、かえす。サヤカが、髪を人差し指で巻く。言葉を探す。見つからない。そんなサヤカを見かねてナギが助け船を出す。
「何とも思わない奴からでも、告られたら意識するでしょ。私はそれを狙っただけ」
ナギが海を見たままビールに口をつける。サヤカのあたまは、まだ、言葉を探している。
「…ありがとう、だけで今日はいい?」
「いいよ」
月明かりが波を照らしている。生まれては、砕けて消える波。