七星天分肘

社畜さん、おつかれさま、と頭の中でアサコが言った。21時の東山線を待つのは、呑み終わった人間の方が多い。
ふと、ドアが開く前に予感がした。ドアが開いた。お姉ちゃんが座っていた。お姉ちゃんが文庫本から目を上げる。にっこりしてくれた。お姉ちゃんの隣に座る。
「珍しいね」
お姉ちゃんは基本車移動の人だ。
「ミッドランドに用事があって」
中つ国ではない、名駅前のビルのことだ。映画以外は何をするにも5割増し、この街にはめずらしく高級感が身についた建物だ。チョコパフェだって二千円する。お姉ちゃんのヒザの上のカバンを見る。Airの入るやつだから、仕事がらみだろう。ミッドランドで仕事がらみ…なんか、やっぱ世界違うなぁ…こちとらITドカタだもんなぁ、なんて情けなく思っている間に、星ヶ丘に着いた。
お姉ちゃんのちょっと後ろを歩く。薄い身体。わたしよりほんの少し背が低いだけなのに、とても小さな頭。階段を登る。目の前に、細くて真っ黒の髪が揺れる。昔、髪をすく痴漢の噂を聞いたけれど、今ならそんな気持ちもわかるかも、と思っていたら、上から知ってる声が降ってきた。
「離して!」
階段を駆け上がる。


アサコが男ともみ合っていた。ごついってほどじゃないが、小柄なアサコを力で圧倒するには十分に見えた。


「あ…」
わたしの声よりも早く、白く細い腕が男に絡みついたように見えた。男がくるりと宙を舞う。舞った後、男はアスファルトに「置かれた」 「置かれた」男の顔が歪む。
「なんだぁおまえぇ」
振り抜こうとした右腕を半身でかわし、伸びきったところを右手で引く。同時に左手で顎を、左足で脚を払う。男は背中から「落とされた」 呼吸困難に陥った男に一瞥もくれず、お姉ちゃんはアサコの手を握って走り出す。すれ違いざま、小さく「駐輪場で」と言った。
少し男が心配になったが、お姉ちゃんがそんな下手を打つはずもない。わたしはゆっくりめに駐輪場まで歩いた。