ピーク

意識しないわけではなかったが、それでも一緒のテントに泊まってもらった。彼女は多くを話す方ではなかったが、彼女の、そう、という一言で、全てが肯定される感じがした。歌の話、写真の話、山の話、森の話、鳥の話。


とん、と眉間をつつかれて意識が浮上した。ランタンの灯りが彼女の輪郭を浮かび上がらせていた。
「2回つついて起きなかったらキスしようかと思ってたのに」
残念そうな顔を作って、彼女がくるっと後ろを向いた。長い髪がふわりと舞った。
「準備ができたら出てきて、ごはん作ってるから」


空はまだ黒々としていて、私は天の川というものを生まれて初めて見た。プラネタリウムでしか知らなかった空が広がっていた。パチ、と木のはぜる音がして私は意識を取り戻す。視線を降ろすと彼女が火を踊らせていた。小さく歌う声が聞こえる。彼女と火を挟んで向かい合わせに座る。
「チーズとパンのスープ。あまり見た目はよくないけど、しっかりと動けるようになるわ。あと、これの焼き加減は自分で管理してね」
スープの器とソーセージの串を渡される。
「いただきます」
じんわりとスープの暖かみが身体に染みる。軽めのスープの味付けに、チーズがしっかりと後を押している。アクセントにハーブもはいっているようだった。ソーセージも、シンプルだけれどもしっかりとした味付けで、力がわいてくるような味だった。
「おかわりもあるからね。まだ結構歩くから、しっかり食べて」
彼女が軽く首をかしげてほほえむ。
「…すみません、なにからなにまでしてもらってばっかりで…」
「クライアントに荷物持たせてるだけで、十分問題だと思ってるのだけれど。ファンにばれたら叱られちゃう」
彼女が声にシャープをかけたのがわかった。


「じゃあ…」


人差し指を唇にあて、彼女が私にお願い事をした。私はよろこんで、と返した。


「…でも、大きな声を出していいんでしょうか? マナーとか」
「むしろ熊よけになるわ」
「熊!?」
目を丸くした私を、彼女が面白そうに見ていた。
「鹿も、イノシシも、ウサギも。いないのは人間くらいね」


♪遠き山に日は落ちて…


前を歩く彼女のリズムが、私の歌にのっているのがわかる。
ときどき小さく歌う声が聞こえてきて、それはとてもよく私の声と響いた。


不意に彼女が立ち止まって、振り返った。指さす方を見る、とがった峰が見えた。
「あそこが目的地。必要な物以外はここに」
私の荷物を受け取り、さっとパッキングしなおす。小さなリュック1つが私の担当になった。
岩がむき出しになり、角度は急峻になっていった。息は上がり、所々這うようにして登っていった。彼女はこちらを振り返らないけれど、ずっと確認はしているようで、私との距離は常に一定に保たれていた。右足、左足、と唱えながら登る、と、彼女がお疲れ様、と言ってこちらに手をさしのべていた。その手を握り、ぐっと身体を押し上げる。もう、登るべき場所はなかった。ぺたりとその場に座り込む。
「ずいぶん早くついたわ。お疲れ様」
彼女はそう言って、胸ポケットからなにか取り出した。
「飴とチョコレート、どっちがよい?」
「チョ…」
言いかけて気がつく。力が少しも残っていない。彼女は少し首をかしげて、口開けて、と言ってほほえんだ。口の中でチョコレートが溶ける。口の中からそのまま筋肉にエネルギーが溶けていくようだった。自然に目が閉じた。と、顎のラインに手が添えられた。私の身体は防御反応を示すことなく、ひんやりとした外気とその温もりの差分を楽しんだ。スッと、両頬が軽く撫でられた。ゆっくりと目を開ける。彼女が化粧筆を持ってほほえんでいた。
「チークをちょっとだけ」


それからしばらくの間、彼女はカメラを組み立てて、なにかのチェックをしていた。ぱっと見ただけでも特大のが二つ、大きいのが一つ、小さなのが一つ。その小さなの(といっても手のひらには余るくらい)を私にぽん、と渡した。
「あとは待つだけだから、撮りたいものを好きにどうぞ」
「え、あの、わたし、機械とかさっぱりで…」
「上にあるON/OFFのボタンを押して、あとはシャッターを押せば撮れるように設定してあるから」
返そうとした私の手に、代わりにもう一個チョコレートが載せられた。しかたなくチョコレートをかじって、ON/OFFボタンを押す。ミュ、と音がしてレンズが伸びた。なんとなくそのままもう一度ON/OFFボタンを押して電源を切ってしまった。彼女は、といえば空を見上げていた。つられて星空を見上げる、星の色までわかるような気がする。私は死を思ったことはないが、こんな世界で死ぬならそれもいいのかもしれない、と小さく思った。


と、彼女がヒザ立ちになった。3台のカメラを足下に寄せ、1台を手に取った。
「もうすぐ日が昇るわ。あっちが東」
時計を見るようなそぶりは全くなかった。
「時間、わかるんですか?」
「その日、その時間に見える星は全て決まっているの」
夏の星座、冬の星座、という知識はある。北極星という言葉も知っている。けれど、彼女が言っているのはそれを一日、数分という精度で頭の中で演算できる、ということのようだった。