リズ

その日から、明確に仕事の時間が増えていった。レコーディング・衣装合わせ・撮影だけでなく、インタビューやイベントが入っていった。そのクルマの情報が少しづつ世の中に流れ、終いには「研究所」に呼び出された。ケータイとカメラを預かってもらい、身の回りのものだけを透明のトートバッグに入れ、白いツナギを着た人たちについてプロデューサーと歩く。倉庫のような建物がならんでいて、あちこちに黒いテープが貼られていたり、渦巻き模様のシールで全体が覆われている車が停まっている。白いツナギを着た人が、ちょっと距離があるんでこちらにどうぞ、といって一台のクルマのドアを開けてくれた。ぱっと見は普通の車に見えたが、ナンバーが付いていなかった。
車はゆっくりと建物の間を進んだ。やがて建物が途切れ、森の中へと進み、どこに行くのだろう、と思った時、ぱっと空が開けた。
「今日の撮影はこちらです。」
車を降りたわたしは、飛行場のようなところに立っていた。テストコースと呼ぶのだと、後でプロデューサーに教わった。アスファルトの長い直線の向こうに緩いカーブが見える。背後にあったシャッターがガラガラと音を立てて開いた。見知ったメイクさんが手を振っていた。


着替えてメイクしてもらって、生まれて初めてヘルメットをかぶった。その頃CMディクレクターさんが到着した。白いツナギを着たひと達がそろそろ出すか、と言って広いガレージの隅にある、黒いカバーをかけられた塊に手を伸ばした。全体にかけられたカバーを外し、上からかかっているカバーを外し、前後のカバーを外すと、ようやくそれは姿を現した。それは、映像でみるよりも気持ち小振りに見えた。天井の蛍光灯がキラキラと反射していた。
ぼうっと眺めていたら、いつの間にか人垣ができていた。お揃いの白いツナギ、帽子、プロデューサーさんや、メイクさん、CMディレクターさんの方がむしろ浮いて見える。白いツナギの人たちの間を通って、少し小柄な少女…?がヘルメットを被りながらやってきた。握手を求められて、そっと手を出した。白い肌、鼻筋にソバカス、青い瞳。「ヨロシクオネガイシマス」と言って、微笑んだ。「こちらこそ」と微笑みを返したら、シャッターの音が聞こえた。ええっと、こちらこそって、英語でなんと言うんだろうか、と思ったのを察したのか、彼女は「ワタシ、ニホンゴ、チョットデキルネ。リズトヨンデクダサイ。」と言ってくれた。
ドアを開けてもらって助手席に座る。席が低くて、目線がドアを閉めてくれた人の腰より低い。シートベルトの締め方がわからずに戸惑っていると、リズが運転席から手を伸ばして助けてくれた。リズがシルバーで縁取られた赤いボタンを押すと、キュル、という音の後にファン!と音がして、エンジンの音が流れ出した。
「コノボタン、ワタシ、ハジメテデスネ」
リズがわたしの目を見て微笑む。リズが指差したボタンは黒。同じようにクロームで縁取られていた。
頭の上でカチっと音がして、軽いモーター音とともに頭上の屋根がスルスルと下がっていく。明かりが車内に広がって、クルマの中って暗かったんだと初めて気がつく。リズがハンドサインで周囲とコンタクトをとって、節をつけて言った。
「OK, here we go!」

ゆっくりとガレージを抜ける。空が青い。リズがハンドルを切って、クルマが道の向きに沿う形になった。一度静止する。リズがこちらを見て、膝の上の両手を指差した。
「テワ、ソコ、トソコ」
リズの指した場所へ手を伸ばす。確かに掴むところがあった。わたしが握ったのを確認して、リズがわたしの目を覗き込む。
「Are you ready?」
「イ、イエ」
スを言うことができなかった。エンジンの音がチェロの音域から、ヴァイオリンに変わったとおもった瞬間に、私の背中はシートに押し付けられている。一瞬前まで止まっていたのに、今は周囲の景色が後ろに向かって飛んで行く。はるかかなたに見えていたカーブがもう目の前だ。軽く、短いブレーキ。次の瞬間、私はリズが車体を握れ、と言った意味を思い知った。子供の頃に一度だけ乗ったジェットコースターを思い出す。身体が思い切り左に振られた。キュルキュルキュルという音がして、クルマの鼻先がぐっと内側を向く。滑ってる。息をつく間もなく、次のコーナーがやってくる。クルマの姿勢が目まぐるしく変わる。


5つ目ぐらいのコーナーを抜ける頃、ふと、ハミングが聞こえた。リズがハンドルを指で叩きながら歌っている。
リズと目があった。
音が取れた。
私の歌。
きつく結んでいた私の唇が開いた。


着替えて戻ってきたら、リズがメイクさんに捕まっていた。リズが恥ずかしそうにこっちを見た。リズの後で、わたしもメイクをなおしてもらう。


―どうでしたか?
「ビックリしました。聞いてなかったし、すごいスピードで走るし、滑るし、でも、楽しかったです」
「彼女、凄いんですよ。わたしもいろんな人を乗せて走るけど、私より大きな声で歌ったひとははじめてです」
「だってリズが私の歌を歌ってたから」
(リズが通訳さんの声が止まる前に笑いだす)
「私は彼女のファンになってしまいました。彼女とデュオをできたのはきっと一生忘れないですね」
「私も一生忘れないと思います」
―クルマに関して一言頂けますか?
「キレイな形をしていますね。屋根が開いて驚きました。でも、風もきもちよくて素敵でした。ステージにいるときのように歌った気がします。わたしは免許を持っていませんけれど、いつか運転してみたいです」
「素直ないい子ですね。狙ったラインにすっと入る。ちょっといい子すぎるかな、とも思いますけれども、それは、私が普段乗ってる子たちが私みたいなじゃじゃ馬ばっかりだからじゃないかな(笑い)」
―では、最後にお互いに関して一言ずつお願いします。
「リズが私と同い年で、世界を回っているレーサーだと聞いてとても驚きました。自動車のレースは見たことがないんですけれど、リズが出るなら見に行ってみたいな、と思います」
「じゃあ、次のレースに招待します(いいよね?とマネージャーに確認)。OKだそうです(笑い)。私も彼女が同じ年だと聞いて驚きました。歌声だけしか知らなかったから。この話を聞いたときに、音源をもらったんですけれど、今はレース前にずっと聞いています。私はこの歌の詩の中にあるように私自身でありたいし、その上でレースも勝ちたい。怖かったり、不安になったりもするんですけれど、この曲を聞くと前に向かうことに集中できるんです」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
「ライブに招待してもらえたら嬉しいな」
「えっと…(プロデューサーからマルサイン) いいみたいです!」


握手をして、リズと別れた。聞けばその足で北米に向かうという。